2013年12月25日水曜日

自己愛的確信の特質

「自分は自分の行く道と自分の現状を知る事によって、或る淋しさと或る法悦や希望を感じてみる。自分が自分の真の孤独にどんどん深入りして行くからである。そうして、自分は人間がほんとうに、この孤独になるの外、外物との本当の接触や交渉をする事の出来ないのを信じる。自分は自分の道を知って、自分の現状を知って、ほんとうに自分でないすべての道や個性を知った」(十方定一『岸田劉生』)。

 この文章と自画像と麗子による直観的な判断とを結合すると、劉生の個性の形成ぱこの時期にはじまっており、さらに自己愛的な確信に到達したのである。それは先で述べるヒトラーのモラトリアム時代のあとに急にみられる自己愛的信念体系の確立とよく似ている。大正十三年には「独断は常に自分にこう思わせる。だから独断なのである。そして権威と価値がある。だから問違っていても差しつかえないのである」と述べており、この文章は自己愛的確信の特質をよくあらわしている。

 十代の劉生の挫折は内心の不安にもとづくものであるが、この不安を防衛するように独断的な劉生があらわれる。そして、自己愛的確信に到達したあとぱ、不安や脅威は抑圧されて自信にみちみちた権勢的な人格に生まれ変ってしまうのである。 劉生の自画像への固執は、娘麗子が生まれたあとは、自己対象としての「麗子像」にそのリビドーのすべてがささけられる。麗子は自分の一部が拡張されたものであるから、劉生自身の自己愛、すなわち自己への関心や愛情は、自己の「分身である麗子」に向けられるのである。現在わかっているだけでも一九一四年の「麗子一歳の像」という素描から、一九二九年の「麗子十六歳の像」まで五十八点を数えることができる。

 このような数多くの作品に登場する麗子は、自身のモデルとしての感想を語っているが、「自分の気持では、私は父と一緒に製作している気がしたのです」というように、そこには父との「同一化」ないしは「共生関係」がいちじるしくみられる。「父に叱られた」思い出の中で、「父は普通の人ではないのだ、父がみていない所でも、悪いことをすれば父にちやんとわかるのだ」と思うようになったと述べていることと併せて考えると、麗子のなかで「万能的父親」としての劉生のイメージが形成されていたことが指摘できる。

2013年11月7日木曜日

マントラや賛歌を斉唱する

次に「スーリヤーナマスカール」という太陽に捧げる祈りを行なう。これは昇り行く朝日や、沈み行く夕日に対して、マントラを唱えながら、合唱した手を天に突き上げたり、腕立て伏せのようなことをしたりするヨーガの一種で、RSSのシャーカーに限らず広くインド全土のヨーガ道場などで行なわれているものである。さらに、これに続いて、さまざまなヨーガや武術の訓練が行なわれる。この訓練の中では、タンターといわれる竹製の警棒を用いた武術の訓練か中心となることが多い。このタンターの訓練では、列を作り号令にあわせて竹製の棒を振りかざしたり、方向転換をしながらその棒を振り下ろしたりする。私の調査したシャーカーでは、型を習得することに力点がおかれており、実践的な訓練はあまりなされていなかった。そのためかどうかはわからないか、彼らは概してそれほど強くない。

 剣道と柔道を少しかじったことのある私は、彼らに何度か勝負を挑んだことかあるか、いつもものの数秒でけりがつく。私か剣道の構えをした瞬間に、彼らの腰は引けてしまい、竹の棒を振りかざした瞬間に後退してしまう。あとは鬼ごっこのように追い掛け回し「かった」と言わせるだけである。また一度、生意気な若いメンバーを背負い投げで投げ飛ばしたことかあったか、その時以来、私はそのレヤーカーで一目置かれるようになった。「タケシは強いな。やっぱりジャッキー・チェーンの国から来ただけはある」

 「いやいや、ジャッキー・チェーンは香港の人だよ。俺は日本人」そんなことを言いながら、みんなで笑いあっている。「これで戦闘に行けるのだろうか?」と、こちらか逆に首を傾げてしまう。そして、その後、カバディなどのインドの伝統スポーツを行なう。これはかなり楽しい。みんな真剣になってやるので、私もつい夢中になり、息が上がるぐらいまで走り回ってしまう。調査をしていることをすっかり忘れて、ゲームに勝つことに集中してしまう。ここまでのトレーニングを終えると、夏場はたいてい汗でぐっしょりになる。このようなトレーニングを毎日毎日、朝夕の二回続けることは予想以上に大変である。日本で朝方に寝て昼前に起きる不健康な生活を送っている私にとっては、かなりきつい。

 さて、このような身体訓練の後、知的訓練か始まる。この知的訓練は、多くの場合、全員か一つの輪になり、座った状態で行なわれる。まず、選ばれた人物かマントラや賛歌を斉唱し、その後を追う形で、参加者全員かそのマントラや賛歌を同様に斉唱する。それか終わると、教育係による訓話か始まる。この訓話は、ヒンドゥーの神々の話やマントラの意味の説明など、宗教訓話であることか多いか、時にはインド独立運動の志士をたたえる話や歴史的英雄の話などかされることもある。また、ここでRSSの主催するイベントの情報などか通知され、それへの動員が図られる。これに続いて、教育係とメンバーの問答が交わされる。これは、教育係が質問を出し、指名されたメンバーが答える形で進められる。ここでは、出された質問に対して、メンバーは決められた答えを正確に答えることが要求される。さらに、この後、参加者全員での討論会か行なわれる。ここでは、日常生活に関することから政治の話まで、幅広い話題か討論される。

 最後に、再び参加者全員か整列しマントラを唱え、全員で声を合わせて「バーラトーマーター・キージャイ」(「母なるインドに勝利を」の意)と唱える。そして、立てていた旗をたたみ、それに一礼して一回のシャーカーが終わる。「回れ右!」このシャーカーに参加していて私か最も驚いたのは、整列・行進の訓練の時である。アヨーディヤーのシャーカーに参加する若者達は、概して、この整列・行進か上手くできないのである。まず、号令にあわせて同じ行動をとることか上手くない。「全体、前へ進め!」そうグループリーダーが声をかけても、必ず数人の出だしの一歩目のタイミングか狂う。そうすると後ろの人間が前の人間とぶつかり列が乱れ、収拾かつかなくなる。これか毎日毎日続き、教育係がいつも大声でしかる。さらに、行進をする際に、手と足の動きか揃うことなど、まずもってない。数人は右手と右足、左手と左足が一緒にでる。二、二、一、二」と声をかけなから行進をするか、声と手足の動きかうまく合っておらず、全体が全く揃っていない。

2013年8月28日水曜日

ドブに金を捨てるような事業

たしかにその通りだ。一九八〇年頃、北部の沖縄市や南部の南風原町を訪ねことがあるたが、まだ未舗装の道路がたくさんあって、前方にトラックなどが走っていると、土ぼこりが車内まで侵入してきてひどい目にあったものだ。ところが、今では沖縄で舗装されていない道路を見つけるほうがむずかしい。私は一九七七年に、取材で一ヵ月ほど読谷に滞在したが、夕方に帰ってくると顔から鼻の中まではこりだらけだった。こんな生活環境を何とかしようと、政府は「沖縄振興開発計画」を策定して、積極的にインフラを整備したことは述べた通りである。

 振興開発計画は沖縄だけでなく、開発庁がおかれた北海道にもあったが、両者は大きく違っていた。北海道の場合、国が開発計画を決定するが、沖縄は振興法第四条によって、沖縄県知事が振興計画案を立て、それを内閣総理大臣が決定主導する。つまり、沖縄県の意向が尊重されるようになっているのだ。至れり尽くせりとまでは言わないが、北海道に比べたらはるかに優遇されていた。ところが、なぜか振興開発予算の多くは、道路や港湾、空港などの整備に集中的に使われてきた。初期の頃ならそれでもよかった。しかし、第一次および第二次沖縄開発振興計画の二〇年間で、ほぼ本土並みにインフラが整備されたにもかかわらず、まだまだ整備が足りないとばかりに、道路やハコモノに補助金が投入された。

 沖縄にかぎらず、失業率が高い地方では、公共事業はそのものが目的ではなく、雇用を拡大するための社会保障として利用されることはよくある。社会保障が薄く、都市集中が激しい日本では必要悪でもあるが、それでも沖縄の場合はちょっと異常である。国に言われるまま、補助金を公共事業にばらまいてきたとしたら、これは沖縄県の怠慢以上に犯罪的行為だろう。八人に一人は建設業界で飯を食っている。九〇年代後半だったが、当時、私か親しくしていた重機のリース会社社長にこう言ったことがある。「今北部の道路を舗装してるんだが、舗装をやり直す必要がないのに、道路を壊してアスファルトを流しているんだ。聞けば、もう沖縄には舗装する道路がなくなり、仕方がないから古いところから塗り替えるているらしい」 これをおかしいと気づいた県職員もいた。

ハードをいくらつくっても、住民はちっとも幸せにならないことに悩み、もっと別のところにお金を使うべきだと提案したそうである。しかし、何も変わらなかったという。 おそらくその理由は、沖縄における建設業の比重だろう。過去に八兆五〇〇〇億円以上もの国家予算をつぎ込み、その多くを公共工事に回したおかげで、沖縄には膨大な数の建設業者が誕生した。行政に頭さえ下げれば仕事を回してもらえるのだから、食いっぱぐれることはない。大手建設会社に何年か勤めると、独立開業する人たちが後を絶たなかった。

 こうして、沖縄最大の國場組を筆頭にした十数社の大手建設業者の下に、膨大な数の中小建設業者がひしめき合うというヒエラルキー的構図ができあがったのである。何年か前だったが、県内の新聞に、建設業者の数が四〇〇社をこえたという記事を見て、さすがに多いなあと感心したものだが、よく読むと、四〇〇社というのは宮古島だけの数で、沖縄全島では五五〇〇社をこえるそうである。八人に一人はこの業界で飯を食っているというから途方もない数なのだ。そしてもうひとつの理由は、たとえドブに金を捨てるような事業でも、この国の官僚はいったん走り出したら止まらない。アレックスーカーのいうブレーキのない戦車のようなもので、沖縄県の役人もそれと大差なかったということだろう。

2013年7月5日金曜日

アジアの奇跡という幻想

NAFTAが不成立に終わった場合、どうなるか、だれもたしかなことはいえない。メキシコが冷静に受けとめて、改革を続ける可能性もないとはいえない。しかし、深刻な事態になる可能性の方がはるかに高い。改革が成功する保証がないことに投資家が気づいて、金融危機が起こる恐れがある。その一方で、カルデナス(前回の大統領選挙で、同氏が当選していたとしても不思議ではなかった)らのポピュリストが、友好国に対するアメリカの仕打ちを言い立てサリナス政権を非難し、政治危機に発展する恐れもある。

アメリカがNAFTAを受け入れないとすれば、それは、メキシコに向かって、両国の関係が険悪だった時代に逆戻りしようと言っているのも同然だ。アメリカにとって、NAFTAは雇用問題ではない。ましてや経済成長や生産性の問題でもない。友好政権の成功を助けるために、アメリカとしてできることを実行するかどうかを問われているのだ。NAFTAについて、まったく不合理な恐れを抱いて、国境の南に非友好的な政権、まして敵対的な政権をつくりだすとすれば、アメリカは歴史に汚点を残すことになるだろう。

かつて、欧米のオピニオン・リーダーは、東の諸国の驚異的な経済成長率に感心する一方で脅威を抱いていた。経済の水準や規模では欧米にはるかに及ばないものの、農業国から工業国へと急速に脱皮し、先進国の数倍もの成長率を続け、一部の分野では欧米の技術に追いつき追い越そうとしていた。これが、欧米の経済力とイデオロギーの優位に疑問を投げかけているように思えた。東の指導者は欧米と違って、市場経済を信奉しておらず、市民的自由を無制限に認めてはいなかった。そして、東の体制の方が優れていることに自信を深め、こう主張した。東の社会は、強大な国家権力や独裁体制を受け入れ、公共の利益のためには個人の自由を制限し、経済を管理し、長期的な経済成長のために短期的な消費者利益を犠牲にすることもいとわない。東の諸国はいずれ、混迷するいっぽうの欧米諸国を追い抜くことになる。

こうした主張に対し、欧米の識者のなかにも少数とはいえ賛同する者が増えていた。欧米が経済成長率で東に水をあけられたことは、政治問題に発展した。民主党は、「国の再生」を公約に掲げた若く精力的な大統領候補を立て、政権を取り戻した。大統領とそのブレーンにとって、国の再生とは、東の挑戦を受けて立ちアメリカの経済成長を加速することであった。これはいうまでもなく、一九六〇年代はじめの話である。若く精力的な大統領とは、ジョン・F・ケネディである。そして、急速な経済成長をとげている東の諸国とは、ソ連とその衛星国だ。西側が東側の技術力をこれほどまでに警戒するようになった背景には、スプートニクの打ち上げに象徴される宇宙開発競争でのソ連のリードがあった。

一九五〇年代には、共産主義国の経済成長を取り上げ、脅威を訴える本や記事が相次いで登場したが、その一方で、共産主義国の経済成長の要因を綿密に分析し、定説とはかなり違う見方をする経済学者もいた。たしかに、東側の成長率は高いが、それは不思議でもなんでもない。生産の急速な増加は、投入の急速な増加によってすべて説明できる。投入の増加とは、雇用の拡大、教育水準の向上、さらにもっとも重要なものとして物的資本への膨大な投資のことである。こうした投入の増加を考慮すれば、生産の伸び率はおどろくほどではない。ソ連の経済成長で意外な点は、ごくあたりまえの要因で説明できることの方であった。





外交政策としてのNAFTA

NAFTAにともなうアメリカの雇用、環境面のコストはごく小さいものであるが、国民はそうは考えない。また、NAFTAはアメリカにとってたしかに経済効果があるが、その程度はわずかなものである。とすれば、こう問うてみたくなる。クリントン政権はなぜ、残り少なくなった政治力を使い果たしてまで、不人気で経済効果も少ないNAFTAを成立させる必要があるのだろうか。それは、メキシコ政府がNAFTAを必要としているからだ。そして、メキシコ政府を支援することが、アメリカの国益になるからだ。

サリナス政権が民主的政権の模範であるとは言いがたいが、アメリカから見れば、両国の歴史上、最良の政権である。サリナス政権は自由化を柱とする経済改革に取り組んでおり、長年の反米姿勢をなんとか払拭しようとしている。大統領選挙はまだ完全な自由選挙とはなっていないが、自由化、民主化が進んでいることはたしかだ。つい最近まで、アメリカの情報関係者はメキシコを警戒していた。債務危機と石油価格の急落によって打撃を受けていることから、急進政権が誕生して、アメリカの安全保障にとって脅威になりかねないと見ていたのだ。そのメキシコに、友好政権が誕生したのだから、国務省にとっては願ってもないことである。

しかし、長期的に見て、メキシコの改革が成功するという保証はない。サリナス政権は経済の自由化、とりわけ貿易の自由化を大胆に進めている。最高関税率は一〇〇パーセントから二〇パーセントに引き下げられ、許認可が必要な輸入品目は九三パーセントから四分の一以下に削減された。こうした改革が実ってメキシコは海外投資家の信認を回復し、一九九〇年以降、巨額の資本が流入している。しかし、いちばん重要な点については、いまのところ成果と呼べるようなものはない。つまり、一般市民の生活水準が改善していないのだ。たしかに、九〇年には八年にわたる経済停滞を脱し、メキシコ経済は成長軌道に戻った。しかし、経済成長率は労働人口の伸び率に追いつくのがやっとであり、八〇年当時とくらべて失業率ははるかに高く、実質賃金ははるかに低くなっている。

エコノミストの多くは、メキシコの改革がいずれ大きな実を結ぶと見ている。しかし、そうなるまでに、成長の回復を支えてきた国民や海外投資家がしびれを切らし、改革路線に見切りをつける恐れがつきまとう。アメリカとの自由貿易を推進するというサリナス大統領の決断は、こうした背景のもとで考えるべきである。サリナス政権にとって、NAFTAは一種の政治公約である。海外投資家に対してはメキシコが改革を継続すること(そして、アメリカがメキシコ製品に対して市場を開放しつづけること)を、国民に対してはよい時代が訪れることを約束しているのだ。

後知恵にすぎないが、サリナス政権はNAFTAを提案しない方がよかったともいえる。NAFTAがなくても、メキシコは、一九八〇年代半ば以来進めてきた貿易自由化路線をおそらく継続していただろう。それによって、すでにメキシコの工業製品に対してかなり開放されているアメリカ市場を利用することができ、自由貿易協定を正式に提案することで反対派を刺激する必要はなかった。しかし、いまさら後戻りはできない。交渉がまとまった以上、アメリカがNAFTAを批准しなければ、サリナス政権は大きな打撃を受けることになろう。



NAFTAの経済効果

ここを訪れたことのある人なら、こうした集中立地が文字どおり、息苦しくなるような環境問題を引き起こしていることに気づいている。これに対し、メキシコが輸出志向政策に転換して以降に建設された輸出産業の工場は、ほとんどが北部にある。こうした工場が環境に配慮しているとは言いがたいが、少なくとも、海抜一六〇〇メIトルの盆地に二〇〇〇万人が住むメキシコシティとは、立地条件が違う。NAFTAは雇用を創出するわけでも失業をもたらすわけでもないが、北米の労働生産性をわずかに向上させることになろう。まともな研究(事実の裏付けに基づいて頭を切り換えるだけの柔軟性をもつ人が行った研究)を見ればかならず、NAFTAがアメリカにとって、わずかに利益になることがわかる。

これは、貿易から通常得られる利益と、なんら変わりがない。第一に、各国は、生産性が比較的高い産業の生産を増やすことになり、北米経済全体の生産性が向上する。第二に、市場が拡大することで、規模の経済のメリットが大きくなる。第三に、市場が拡大することで競争が促され、独占にともなう非効率が是正される。ここで重要なのは、「わずかに」という言葉である。NAFTAによるアメリカの実質所得の増加が、〇・一パーセントを大きく上回るとする研究結果は、ほとんどない。 なぜ、利益がわずかなのか。ひとつには、NAFTAが成立する以前から、アメリカ、メキシコでは、すでに貿易自由化がかなり進んでいるからである。市場統合という点では、NAFTAはそれほど大きな意味はない。もうひとつの理由として、メキシコの経済規模が小さいことがあげられる。メキシコのGDPは、アメリカの四パーセントに満たない。したがって、アメリカの輸入先としても輸出市場としても、メキシコが大きな位置を占めることは、当面ありえない。

一方、メキシコがNAFTAから得る利益は、GDPに対する比率で見れば、当然、アメリカよりも大きくなる。メキシコ経済の規模がはるかに小さいという点を考えただけでも、これはあたりまえのことだ。最近のある推計によれば、NAFTAによる利益はアメリカ、メキシコの間で、ほぼ折半される(両国とも年間約六〇億ドルである)。これをGDPに対する比率で見ると、アメリカは〇・一パーセント強にすぎないが、メキシコは四パーセントを超えている。熟練労働力の豊富な国が少ない国との貿易を増やした場合、国内の非熟練労働者の実質賃金が低下する可能性がある。理論的には、NAFTAがアメリカの単純労働者の賃金に、少なくともなんらかの悪影響をあたえることが予想される。

しかし、事実を見るかぎり、この影響はきわめて小さい。ひとつには、アメリカとメキシコの間の残存貿易障壁がすでにかなり低く、今後、全面的に撤廃されたとしても、賃金に大きな影響をあたえるとは考えにくいからだ。さらに、経済理論にしたがえば、アメリカとメキシコの間の貿易は、技術集約型の製品と労働集約型の製品を交換する形になるが、こうした貿易のかたよりがアメリカの低賃金労働者に不利にはたらくことを、実際の貿易統計で検証するのは意外にむずかしい。その好例が、よく引用されるゲイリー・ハウバウアーとジェフリー・ショットのNAFTAに関する研究結果である。それによると、メキシコからの輸入と競合する産業と、メキシコに輸出している産業の平均賃金は、ほぼおなじである。

ただ、貿易が実際にアメリカの所得分配に悪影響をあたえているという証拠が見つからないのは、なにもメキシコのケースにかぎったことではない。二人のエコノミストが、貿易が賃金に大きな影響をあたえているという結果を予想して、調査を行ったところ、一九七九年以降のアメリカの賃金格差拡大には、貿易はほとんど影響していないという結論に達している。ローレンスーカッツによる調査でも、おなじ結論になっている。したがって、理論的には、NAFTAはアメリカの非熟練労働者に悪影響をあたえることを認めざるをえないが、実際には、それを裏付ける証拠がない。したがって、こうした影響はきわめて小さいと考えるのが妥当である。

NAFTAと環境

NAFTAによってメキシコからの輸入が実際に増え、その結果、他の条件が変わらなければ、今後一〇年間に雇用が五〇万人減ると想定しよう。他の条件が実際に変わらないことがあるだろうか。もちろん、そんなことはありえない。FRBは、景気が減速すると見れば、金利を低めに設定するはずである。逆に、他の条件が変わらなければ、NAFTAによって雇用が五〇万人増えるとすれば、金利は上昇するはずである。FRBの目標が外れることは間違いないが、雇用が目標より多くなるか少なくなるかは五分五分である。そして、一〇年という期間で見れば、NAFTAがあった場合となかった場合で、雇用の平均水準に違いがあると考える理由はない。

この結論は、協定の詳細によって左右されるものではない。もちろん、NAFTAがアメリカ経済にあたえる直接の影響として、五〇〇万人の雇用が失われるといわれたら、FRBにこの打撃を相殺するだけの力があるか、心配になるかもしれない。ちょうど、向かい風がきわめて強ければ、車の運転に苦労する上うなものだ。しかし実際には、NAFTAの強硬な反対派ですら、五〇万人以上、雇用が失われると見る人はまずいない。アメリカの雇用者数に対する比率は〇・五パーセントにも満たない。この予測がいずれも小幅であるのには、わけがある。関税率などの数字を見れば、メキシコに対するアメリカの貿易障壁がすでにかなり低いことは、一目瞭然だからだ。現在、工業製品に対する関税率は四パーセントであり、一部の農産物にはそれより高めの関税率、一部品目には数量規制が適用されている。

ロスーペローは、NAFTAによって「巨人がスープをすするような音」を立てて雇用が大量に流出するというが、アメリカの製造業にとってメキシコの低賃金がそこまで大きな魅力であるとすれば、そうした企業はとっくに移転しているはずである。いずれにせよ、〇・五パーセント程度の雇用の減少(または増加)は、FRBの政策の影響力とくらべれば、わずかなものである。この程度の変化は、一パーセント以下の金利の微調整で相殺できるし、実際そうなるだろう。雇用不安を別にすれば、NAFTA反対論のなかでそれなりに効果をあげているのは、NAFTAが環境破壊を招くという議論である。環境規制、とくにその運用が緩やかなメキシコに、アメリカの製造業が移転するというのが、その理由だ。

もちろん、メキシコの工場が一般に、アメリカの工場よりも環境に被害をあたえていることは、疑う余地がない。しかし、これは比較の対象を間違えている。NAFTAによってアメリカからメキシコに(またはその逆にご雇用が流出することがない以上、問題は、NAFTA成立後にできたメキシコの工場が、アメリカの工場にくらべて環境に配慮しないかどうかではない。NAFTA成立後にできたメキシコの工場が、NAFTAが成立しなかった場合にメキシコの労働者がはたらく工場とくらべて、環境に大きな被害をあたえるかどうかが問題なのだ。これについて、はっきりとした回答があるわけではないが、少なくとも二つの理由から、NAFTAが全体としてメキシコの環境によい影響をあたえると考えられる。

ひとつは、アメリカがNAFTAに関連して環境問題を取り上げているので、NAFTAが成立しなかった場合よりも、メキシコが環境規制の運用をきびしくすることである。それでも、アメリカ0 工場にくらべたら、メキシコの工場はかなり問題があるだろうが、それは別の話だ。重要なのは、NAFTAが成立しなかった場合とくらべて、メキシコの工場がクリーンになることである。それ以上に環境にとってよいのは、メキシコの産業分布が変わることである。一九八〇年以前には、メキシコの工業化は主に国内市場を対象としており、メキシコシティとその周辺に集中していた。

2013年3月30日土曜日

憧れの中古ライカ

突然、小学生も終わり頃の記憶がよみがえってきたからです。私の実家は農家で、トイレは母屋の横にあり、大のときは、いちいち庭に出て石段を二、三段のぼり、板張りの戸を開けて入るようになっていました。トイレに入ってしゃがむと、庭に面した板戸の、ちょうど目の高さの場所に直径一センチくらいの小さなふし穴がありました。その穴を通った光が、目の前の白い壁に庭の風景を逆さまに映していたのです。ぶし穴を指で塞ぐと消えるので、この穴に何か秘密が隠されているのではないかと、不思議でなりませんでした。

農家の庭は広くとってあり、秋にはお米や大豆の脱穀、冬は機織りのすんだ布を庭いっぱいに干して、父や母はいつも忙しく立ち働いていました。トイレの暗箱の壁に写し出されたその様子を、しゃがんだまま飽きずに眺めていたものです。カメラの語源から思わぬ記憶が引っぱり出されてきましたが、もしかしたらこれが、私にとっての初めてのカメラとの出会いだったのかもしれません。この小さなふし穴の神秘の記憶が、のちにカメラに興味を持つようになった一因だったような気もします。

高校時代は千曲川ぞいの崖道や田んぼ、小さな村落をぬって、片道八キロの道を自転車で通学していましたが、まだ自分のカメラを持っていなかったので、景色が変わる秋や冬になると友人からフジカシックスというブローニー判のカメラを借り、通学途中で気に入った風景に出会うと自転車を止め、写真を撮っていました。野球部に入っていたので、遠征のときは新聞部に頼まれ、宿舎の様子や素振りをする球友の 卵姿をカメラに納めたりもしました。それが昂じて一九五六(昭和三十一)年に写真の大学に進みましたが、まず驚いたのは、上級生たちがみな、いつも肩からカメラを下げていたことです。

写真の勉強をしているのだから当然といえば当然ですが、英語の時間でも数学の時間でも机の上にカメラがズラツと並んでいる光景は、やはり異様に見えたものです。しかしIヵ月もすると、新入生たちもみなと同じようにカメラを持って歩いていました。貧乏学生だったので、それまでオリンパス4bしか持っていませんでしたが、入学したときに兄が中古のキヤノンSHを買ってくれました。学生の中には最新型のニコンやキヤノンを持っている者もいたので、頼み込んでは触らせてもらいましたが、ファインダーをのぞくだけで我慢していました。

当時発売中のニコンS2は八万三千円、キヤノン4SbやキヤノンVTも同じような値段でした。ライカM3にいたってはカメラ屋さんのウィンドー越しに見るだけで、値段は見るのも怖いほどでした。その後ドー年間のアルバイトとキヤノンSHを下取りに出したお金三万五千円で、ようやく中古のライカⅢaを手に入れましたが、同じクラスにライカⅢaを持つ者が多かったのはどうしてだったのでしょう。級友の立木義浩もそうだったし、学生食堂で食事中。テーブルに置いたカメラがすべてライカⅢaだったこともあります。ライカⅢaはわれわれとほぼ同じ年齢のカメラで、あの頃がドイツの工業力のピークだったなどと言っては、二十年物の中古品しか持てない身のウサを晴らしたものでした。