2014年5月2日金曜日

鈴木・中曽根行財政改革路

このようにバブルと財政政策との関係は、今まで主として、財政の発動が遅れたとか、過度であったというような、実物経済の需要効果の側面に注意が向けられていた。しかし、バブルヘの影響は、強力な財政再建路線によって、従来国債を通じて流れていた資金運用の道が急に閉ざされ、銀行がカネの使途に困ったことにも一因があったのではないか。

 大企業の銀行離れや過剰流動性によって銀行に資金がダブついた。それと同時に国庫の資金需要の減少が起ったため、銀行が資金の運用先に困り、結果的に不動産融資に向けざるを得なかったという、いわば「財政の金融効果」もバブルに大きな影響を与えたように思う。

 ちなみに、中・長期国債の発行額は、八〇年代前半には毎年約一〇兆円をかなり超えていたが、財政再建路線により八五年から急速に落ちている。政府部門の資金過不足で見ると、八四年までは約一〇兆円の資金不足であったのが、八五年から不足幅は急速に縮小し、バブルのピーク時、八七、八八、八九年には一兆円台の不足幅になっている。

 鈴木・中曽根行財政改革路線は大きな成功を収め、九一年度には念願の赤字公債発行ゼロの目標を達成したのであるが、その裏側にはこのような金融問題をはらんでいた。経済運営に際しては、財政的視点のみならず、幅広く各方面への影響に目配りが必要だ、との教訓もえられよう。

 バブル発生の頃を今から振り返れば、いろいろ反省点はあり、別の対応もあったと思われる。しかし、あの段階において、何といってもわが国全体が自信に満ち溢れて、向かうところ不可能なことはないといった気分に満ちていた。単に短期的な経済変動を微調整することなら、ある程度マクロ経済政策によって可能かもしれない。

 しかし、バブルが発生するときとは、過去の事例を見ても、その国が経済的繁栄のピークにある時である。わが国においても、まさにジャパンーアズーナンバーワン、欧米に学ぶものなし、との雰囲気が横溢しているときであった。そのような乾燥しきった空気の中で、必ずしも適切とは言えないマクロ経済政策によって枯草に油が注がれ、金融機関によって火が点けられたということだったのだろうか。