2012年5月23日水曜日

改革の原点だった大蔵省

東京・霞が関の官庁街のほぽ南端にある大蔵省。戦時中の一九四二年に建てられたグレーのタイル張りの地味な建物は長らく、「官庁の中の官庁」として霞が関に君臨してきた。道路に面したアーチ形の正面玄関の左の門柱には「大蔵省」、右側には「国税庁」の看板が掲げられている。

いずれの看板も、同省出身で、六〇年代の高度成長の立て役者となった池田勇人元首相が書いた字を銅板に浮き彫りにしたものだ。このうち「大蔵省」の看板は二〇〇一年一月六日までに外され、代わりに「財務省」の看板が掲げられるはずである。同日からは、財務省としての新しい歴史がスタートする。

大蔵省という名称は、古代日本が当時の世界帝国、隋・唐に習って国家制度を離え始めた七世紀の律令制の昔から続いてきた。また、「大蔵」という名前だけに限れば、五世紀後半の雄略天皇の時代にまでさらにさかのぼれる。その由緒ある名称が変わるということは、日本の官僚機構にとって大きな意味を持っているといえよう。この名称変更は、同日から実施される中央省庁の再編に伴うものである。そして、この省庁再編の原点が大蔵省改革だったのである。

ただ、これに伴って、他の多くの省庁のように新たに再編・統合があるわけではない。それは、再編がすでに前倒しされ、国内の金融行政に関する権限のほとんどを、二〇〇〇年七月一日に発足した金融庁に譲り渡したからだ。

財政政策と金融行政は大蔵省の権力のいわば「車の両輪」だった。かつて何度か、予算編成権を握る主計局を大蔵省から内閣直属に移管しようとした動きがあったし、金融行政部門を分離しようとした改革案が出たこともあった。しかし、それら「大蔵解体」論は九〇年代まではことごとく、大蔵省の力によって退けられたのである。

だが、九〇年代半ば以降、個別の大蔵官僚たちの「非行」やスキャンダルが目立ち始め、九八年初頭にはついに「大蔵省金融汚職事件」にまで発展した。これらスキャンダルや事件と絡み合いながら、九四年暮れ、東京のふたつの信用組合の破綻から始まった金融不安やそれに伴う数々の金融行政のほころびも目立ってきた。

こうした情勢から、世論や政治サイドが求めた金融行政の分離論に対して、大蔵省は抵抗しきれなくなった。この結果、金融庁やそれに先立って金融監督庁、金融再生委員会などが発足し、大蔵省の金融行政部門は次第に奪われていったのである。

そして、大蔵省改革はやがて日本の官僚機構全体の改革につながり、九六年秋から、当時の橋本龍太郎首相の主導で行政改革論議が始まった。二〇〇一年一月からの中央省庁再編は、この橋本行革がそれなりに結実したものである。官僚機構の抵抗を排して、省庁の数を減らすことには成功した。しかし、当初意図したような、行政機構の簡素・効率化にはほど遠いようだ。

改革の原点だった大蔵省は一連の再編で、金融行政は分離された。しかし、権力の最大の源泉である予算編成権を握る主計局、そして税務調査権を持つ外局の国税庁は保持し続ける。国税庁の税務調査権は一種の「警察権」であり、政治サイドの攻勢から身を守る強力な武器となる。つまり、大蔵省の表と裏の権力を代表する部門は、新生・財務省になっても残るのである。

大蔵省は確かに、汚職事件以降はかなり意識して身をすくめ、世間に対して「恭順」の意を示していた。だが、潜在的な力がなくなったわけではIなく、今でも強力な権限を持っているのである。大蔵官僚たちは、これらの権限を目立だなく行使することによって、かつてほどではなくてもかなりの力を振るえるはずだ。