2014年6月24日火曜日

銀ばえは死なず

先月(十一月)背中に鈍い痛みが走って取れないので、池尻大橋の病院で診てもらったら、心筋梗塞だといわれて、即刻入院させられた。入院して、心臓カテーテル検査というのを受けた。これは、股の付け根から心臓まで、動脈内にカテーテル(細い管)を挿入して、そのカテーテルから造影剤を放出して写真を撮り、心臓の動きや、血液の流れを調べるという検査であった。

 検査の翌日には院内の歩行が許可されたが、九日間入院した。その入院中に、福田幡存さんが亡くなった。私はいったん退院して、今月八日に、こんどはPTCAという治療を受けるために、再び入院した。PTCAというのは、心臓カテーテル検査と同じように、動脈の中にカテーテルを挿入するが、その先に小さな風船をつけ、その風船をふくらませて、血管の細くなっている部分を押しひろげて血液の流れをよくするという治療である。

 二度目の入院は、五日間ですんだ。けれども日が重なって、福田さんの告別式に参列できなかった。福田さんは、四十年来、尊敬し、愛読し、たまにはお目にかかって話をうかがった先輩である。けれども、最近は、疎遠になっていた。年賀状だけは毎年交換していたが、今年はいただけなかった。昨年の年賀状に、福田さんは、文壇論壇、美術界すべて、もうどうしようもなくダメだ、音楽はまだ希望が持てる、音楽は科学だから、と書かれていた。そういえば福田さんは、最近、発言なさらない。物言うことがむなしくて、口を絨してしまったのだ、と思った。

 しかし、福田さんが口をつぐんだのでは、この国は、ますますダメになる。戦後、進歩的文化人といわれるどうしようもない人たちが輩出したが、福田さんは彼らを斬りまくった。だからといって、彼ら流の思考が消滅したわけではない。学徒兵の戦争責任を問うシンポジウムを開いた「わたつみ会」などに、進歩的文化人思考が受けつがれているのではないか。今は、つくば市の母子殺し事件についで、中学のいじめ問題が連日テレビで騒がれている。

 佐藤愛子さんは芸能レポーターを、うんこにたかる銀ばえ、と言ったそうだが、その言葉を借りると、ワイドショーのキャスター、レポーター、すべて銀ばえである。オス銀ばえ、メス銀ばえが走りまわって、刑事のように犯人を探し責め立てる。学校を責め、家庭を責め、社会を責める。悪者よ責任を感じているのか、と銀ばえは正義の権化となる。あの責め方と正義の装い、あれは進歩的文化人思考のパターンではないか。つまりは、あれが日本人好みの思考のかたちなのかもしれないな、とさえ思えてくる。

2014年6月10日火曜日

「カウンセリングとネットワーク」

「病院内ではもちろんのこと、外部の、子どもを援助する機関と連携して仕事をすることがよくあります。この連携づくりにおいて、人間関係を大事にしながらネットワークをつくるよう心がけています。そこで、①ネットワークづくりと心の専門家をめざす臨床心理士としてのあり方についてお教えいただきたいのですが。心理療法を行う者が、深く心に寄り添うだけでなく、広く他の人だちと協力していくことについてどのようにお考えでしょうか。②ネットワークづくりの中心に臨床心理士がなっていくのと、他の職種の人が中心となる場合と、どのように違った援助が可能になると思われますか」これも岡田さんからの質問です。クライエントに対して深くかかわろうと思えば、それこそなにもしなくて、ただ会っているだけになります。そこからだんだんいろいろな深い問題が出てきて、少しずつ変わっていくというのが心理療法です。

 ところが、それ自身がすごく大変なことだし、苦しいことですからクライエントの状態によっては、そうしたくてもなかなかできない場合もあります。そういうときには、ある程度は表面的でもいいから、たとえば不登校の子なら、ときどきでも学校へ行くようにしようとか、家庭内暴力の子なら、せめてお母さんを殴ったりしないようにしようとか、とりあえずはクライエントの行動を安定させておきたいということもあります。そうすると、臨床心理をやっている者だけではなく、保母さんやソーシャルワーカー、あるいは保健婦さんや学校の先生など、ほかの分野の人との連携がどうしても必要になってきます。ところが、連携をとるほうばかりにあまりコミットしすぎると、深く心に寄り添うというわれわれの焦点からはずれていきます。われわれにはそのジレンマがいつもつきまといます。岡田さんは大きな病院の小児科におられるわけですが、病院に来られるような人というのは、なかなかむずかしい行動が多いものです。たとえば、夜尿くらいだったらいいけれど、そこらにウンコをまき散らすような子もいるし、それをつかんで投げつける子もいる。

 そういうクライエントの場合、とりあえずそういう行動がなくならない限り、「深く心を・・・」などと言っていられません。しかも、ほかにもクライエントは次々に来るわけですから、その子だけに集中するわけにもいきません。そういう場合は、そうした行動をなだめていく意味で、ほかの分野の人と連携していくことも必要になります。ただ、大事なことは、それを第一義とは思わないこと、自分の焦点を見失わないことです。それはあくまでも当座の便宜としてやるだけで、私たちがそこに焦点づけをしてしまったら、心理療法ではなくなってしまいます。ほかの人たちが、「ウンコを投げなくなって、よかったよかった」と喜んでいても、私たちは自分の焦点をはずさないようにして、これから自分たちの仕事がはじまるのだと思っていなければならないわけです。そうすると、みんなも「自分たちはここで喜んでいるが、臨床心理士はどうも違うところを見ているらしい」と、だんだん気がついてきます。

 しかも、実際に違うところが出てきたりすると、「ああ、こういうところを見ていたのか」とわかってきます。つねに連絡を密にとっていて、「みなさんのおかげで、あの子もウンコをまき散らしたりしないようになりましたが、そのあとでこんな変化があったんですよ」というかたちでこちらから解説していくようにすれば、前述のような心理療法家に対する誤解もだんだんに解けて、正しい姿が理解されるようになるでしょう。その意味でも、連携とかネットワークづくりは有効な手段となりえます。そのときに、ネットワークの中心に心理療法家以外の人がなると、どうしても、ウンコをまき散らさなくなったところで終わってしまいます。私たちはそれから以後のことを考えていますが、ほかの人が喜んでいるのに自分だけ、「いえ、まだほんとうの解決じやありません」などと言うとまた嫌われたりしますから、表面的には一緒になって喜んでいてもいいけれども、心ではさらに先を見ていて、クライエントがその次の段階に入って変わってきたところで、「さらに、こんなになったんですよ」と解説すると、みんなもそういう話を聴きたがるようになってきます。病院でも、看護婦さんがもう少しその話を聴きたがるようになるし、お医者さんまでが聴きに来るということになってくるわけです。