2016年1月15日金曜日

「土下座」は防御を完全に放棄した「あいさつ行動」である

升言語的なコミュニケーションにおいても、日本人の「防御」に対する脆弱さは一目瞭然である。それは「あいさつ行動」に現れる。人間の「あいさつ行動」の起源の一つに武装解除がある。さまざまな民族に見られる手を軽く上げて手のひらを相手に向けるあいさつは、「私はこのように手に武器を持っていません。あなたに敵意はありませんから、仲良くしましょう」という信号を送る動作なのである。

 西欧人の握手も同じで、互いに相手が手の中に武器を持っていないことを確認しあう動作なのである。西欧の男性が室内で帽子を脱ぐのは、男性の帽子が兜の象徴だからである。兵士が兜を脱いで武装解除することで、敵意のないことと友好の気持ちを相手に伝える動作が、室内で帽子を脱ぐあいさつへと進化したのである。また、だからこそ兵士ではなかった女性たちは室内で帽子を脱ぐ必要がないのである。

 こうした西欧起源のあいさつ行動に比べると、日本人の「おじぎ」は明らかに武装解除の度合いが高い。頭を深々と下げ、視線を床に落とし、後頭部と首の急所を相手に見せる「おじぎ」は、もしそのとき相手から攻撃を受けたら、握手や帽子を脱ぐあいさつよりはるかに防御が困難である。

 これが「土下座」ともなると、もはや防御は不可能である。だから、「土下座とは防御を完全に放棄したあいさつ行動である」と言うことができる。正月の新年のあいさつ回りでは、私も相手も畳の上ではいつくばって、「本年もどうぞよろしく」などと互いに土下座に近いあいさつをやっている。

 日本は「すぐ謝る文化」であり、西欧やイスラム諸国などの国の多くは「謝らない文化」であることはよく知られている。皿を落とすとすぐ「すいません」と言うか「皿が勝手に落ちたのだ」と言い張る違いである。この「すぐ謝る」というのはじつは「すぐ武装解除する」ということでもあるのである。

 日本人は互いに心の武装解除をしないと安心してコミュニケーションできないのである。「腹を割って話す」がそれであり、心の武装解除をしないと腹に一物ある「腹黒い人」と思われて、信用してもらえないのである。

 だが、すぐ謝ったり「腹を割る」ことで簡単に「心の武装解除」をすることがどれほど防御に弱いかは説明を要しないであろう。日本人同士なら、「心の武装解除」は誠意の表明と解釈されて、かえって相手が信用してくれて、以後のコミュニケーションがスムースに行くのだが、「防御こそ生命線」の要塞文明ではこれは命取りになる。

 なにも「トロイの木馬」を城内に送り込まなくても、自分から開門してくれたのだから、これ幸いとばかりに攻めまくればよいのである。おまえは謝ることで自らの責任を認めた、というわけで二倍も三倍もの損害賠償金をふっかけられることになるのである。

 あるいは、「腹を割る」ことで相手に晒した真意を逆手に取られて、逆に相手につけこまれるのがオチなのである。第一章で述べた篠原選手のように、「自分が弱いから負けた」などと安易に「武装解除」すると、それを逆手に取られて山下監督まで言葉で「投げ飛ばされて」しまうのである。