2015年4月13日月曜日

「民族」とは

民族の時代といわれて久しい。近年、とくに民族の問題がクローズアップされている背景には、いうまでもなく共産主義体制の崩壊がある。冷戦終了後、旧ソ連や東欧では民族意識と宗教の封印が解かれたとたん、堰を切ったように民族問題が噴出した。また旧共産圏以外でも、東西の陣営争いの下で国際社会から黙殺されてきた民族問題が、あらためて浮かびあがってきた。

 もちろん民族の問題は、そのはるか前から存在していた。だが、いまほど「民族」が、「イデオロギー」にかわる道具として露骨な陣取り合戦や政治的駆け引きのために利用されている時代はない。また、いままで民族意識などさほどもたないできた人々が、特定の民族や集団への帰属を強めて社会を「分化」する動きも、これまでになかったものだ。今日もなお、新たな紛争の火の手があがり続ける民族問題解決のマニュアルは、いまだその表紙すら見えてこない。

 そもそも「民族」とはなにか。その定義はひじょうにあいまいで流動的だ。人類をこれこれこういう概念で分類したグループのこと、というような明確な基準がないからである。私たちは、たとえば「多民族国家・米国」といわれると、白人も黒人も黄色人種もいるしなどと、まずは人種の違いを思い描くことが多い。

 まず、人種についてみてみよう。「人種」という言葉には、純粋に生物学的特徴をいう場合と、階層とか文化などの属性も含める場合と、二通りの意味がある。たとえば「人種が違う」というような表現は、肌や目の色の違いというより、育ちなどを問題としたものだろう。こうした文化的属性をも含めての人種は「社会的人種」とよばれることもある。この意味での「人種」は、かつて「民族」とほとんど同じようにもちいられてきた。

 一九世紀から二〇世紀にかけて西洋社会に広まった人種論は、白人は黒人や黄人より優れており、それを支配すべきであるという、植民地制度を正当化するような白人中心思想によっていた。つまり人種とは、わざわざ「社会的人種」とことわるまでもなく、もともとが生物学的特徴と文化的特徴によって、人類を分け隔てる概念だったのである。