2013年12月25日水曜日

自己愛的確信の特質

「自分は自分の行く道と自分の現状を知る事によって、或る淋しさと或る法悦や希望を感じてみる。自分が自分の真の孤独にどんどん深入りして行くからである。そうして、自分は人間がほんとうに、この孤独になるの外、外物との本当の接触や交渉をする事の出来ないのを信じる。自分は自分の道を知って、自分の現状を知って、ほんとうに自分でないすべての道や個性を知った」(十方定一『岸田劉生』)。

 この文章と自画像と麗子による直観的な判断とを結合すると、劉生の個性の形成ぱこの時期にはじまっており、さらに自己愛的な確信に到達したのである。それは先で述べるヒトラーのモラトリアム時代のあとに急にみられる自己愛的信念体系の確立とよく似ている。大正十三年には「独断は常に自分にこう思わせる。だから独断なのである。そして権威と価値がある。だから問違っていても差しつかえないのである」と述べており、この文章は自己愛的確信の特質をよくあらわしている。

 十代の劉生の挫折は内心の不安にもとづくものであるが、この不安を防衛するように独断的な劉生があらわれる。そして、自己愛的確信に到達したあとぱ、不安や脅威は抑圧されて自信にみちみちた権勢的な人格に生まれ変ってしまうのである。 劉生の自画像への固執は、娘麗子が生まれたあとは、自己対象としての「麗子像」にそのリビドーのすべてがささけられる。麗子は自分の一部が拡張されたものであるから、劉生自身の自己愛、すなわち自己への関心や愛情は、自己の「分身である麗子」に向けられるのである。現在わかっているだけでも一九一四年の「麗子一歳の像」という素描から、一九二九年の「麗子十六歳の像」まで五十八点を数えることができる。

 このような数多くの作品に登場する麗子は、自身のモデルとしての感想を語っているが、「自分の気持では、私は父と一緒に製作している気がしたのです」というように、そこには父との「同一化」ないしは「共生関係」がいちじるしくみられる。「父に叱られた」思い出の中で、「父は普通の人ではないのだ、父がみていない所でも、悪いことをすれば父にちやんとわかるのだ」と思うようになったと述べていることと併せて考えると、麗子のなかで「万能的父親」としての劉生のイメージが形成されていたことが指摘できる。