2013年3月30日土曜日

憧れの中古ライカ

突然、小学生も終わり頃の記憶がよみがえってきたからです。私の実家は農家で、トイレは母屋の横にあり、大のときは、いちいち庭に出て石段を二、三段のぼり、板張りの戸を開けて入るようになっていました。トイレに入ってしゃがむと、庭に面した板戸の、ちょうど目の高さの場所に直径一センチくらいの小さなふし穴がありました。その穴を通った光が、目の前の白い壁に庭の風景を逆さまに映していたのです。ぶし穴を指で塞ぐと消えるので、この穴に何か秘密が隠されているのではないかと、不思議でなりませんでした。

農家の庭は広くとってあり、秋にはお米や大豆の脱穀、冬は機織りのすんだ布を庭いっぱいに干して、父や母はいつも忙しく立ち働いていました。トイレの暗箱の壁に写し出されたその様子を、しゃがんだまま飽きずに眺めていたものです。カメラの語源から思わぬ記憶が引っぱり出されてきましたが、もしかしたらこれが、私にとっての初めてのカメラとの出会いだったのかもしれません。この小さなふし穴の神秘の記憶が、のちにカメラに興味を持つようになった一因だったような気もします。

高校時代は千曲川ぞいの崖道や田んぼ、小さな村落をぬって、片道八キロの道を自転車で通学していましたが、まだ自分のカメラを持っていなかったので、景色が変わる秋や冬になると友人からフジカシックスというブローニー判のカメラを借り、通学途中で気に入った風景に出会うと自転車を止め、写真を撮っていました。野球部に入っていたので、遠征のときは新聞部に頼まれ、宿舎の様子や素振りをする球友の 卵姿をカメラに納めたりもしました。それが昂じて一九五六(昭和三十一)年に写真の大学に進みましたが、まず驚いたのは、上級生たちがみな、いつも肩からカメラを下げていたことです。

写真の勉強をしているのだから当然といえば当然ですが、英語の時間でも数学の時間でも机の上にカメラがズラツと並んでいる光景は、やはり異様に見えたものです。しかしIヵ月もすると、新入生たちもみなと同じようにカメラを持って歩いていました。貧乏学生だったので、それまでオリンパス4bしか持っていませんでしたが、入学したときに兄が中古のキヤノンSHを買ってくれました。学生の中には最新型のニコンやキヤノンを持っている者もいたので、頼み込んでは触らせてもらいましたが、ファインダーをのぞくだけで我慢していました。

当時発売中のニコンS2は八万三千円、キヤノン4SbやキヤノンVTも同じような値段でした。ライカM3にいたってはカメラ屋さんのウィンドー越しに見るだけで、値段は見るのも怖いほどでした。その後ドー年間のアルバイトとキヤノンSHを下取りに出したお金三万五千円で、ようやく中古のライカⅢaを手に入れましたが、同じクラスにライカⅢaを持つ者が多かったのはどうしてだったのでしょう。級友の立木義浩もそうだったし、学生食堂で食事中。テーブルに置いたカメラがすべてライカⅢaだったこともあります。ライカⅢaはわれわれとほぼ同じ年齢のカメラで、あの頃がドイツの工業力のピークだったなどと言っては、二十年物の中古品しか持てない身のウサを晴らしたものでした。