2012年12月25日火曜日

「国家のためのお産」として

私の調査した離島や山村では、敗戦前後まで免許持ち産婆は存在せず、そのような中で出産した女性たちは一様に「お産は澗分か産むものだ」と認識していた。とくに人口の多い都市部でもない限り、お産は生活のIコマであり、その時、人手が必要だから助け合う、つまりお産の時の手伝いは、「村落共同体における相互扶助的な助力」であった。

その互助的な側面が拡大したのが、とりあげ婆さんで、その報酬も、通常は礼はなしか大変微々たるものであった(野忽那島では無報酬、岡村島ではそうめん数輪、上須戒ではその時の一度の食事と聞いた)。そのうえ、通常なら村人はそういう人をやとわず、姑や実母をとりあげ婆さんとして産んだのである。

こうして明治維新から末にかけての四五年間に、為政者の肝煎りによって強力に導入の図られた近代西洋医学思想と伝達系としての教育制度の整備・’浸透は、それまでの日本人の持つ伝統的な身体観やそれに付随する医概観、あるいは倍習を徐々にだが非常に人きく変えてしまった。身体観とか生命観、つまり自分の生〈叩や存在のあり方全各々の文化の中で人々が、どのよう仁認識するかということは、人変服大な問題である。例えば近頃でも厄年だと仰心など持ち合わせていないように思える人でも、厄年だから、御利益のあるOOさんへおまいりして来たとか「○いさんにおまいりしておいたら気分がしゃんとするから」などと言うことがある。

私などはそんなに御利益があるのなら、丁度くらいまいりしてみてもいいなとは思うのだが、もし、おまいりして御利益があったのに、お礼まいりに出かけられないとか、次の厄年にもし、都合が悪くて行けなかったりした峙、何か斤期廿ぬことが発心するのではないかとそのことが気になって出かけられない。これらはいずれも表而的にはづ神なんているはずがない」と否定しながら、心の奥深くで神の存在をけ定し、自分たちの生命の竹理が‐に見えない神の力によってなされているのだということを、相当強く意識していることになる。

つい最近まで北部オーストラリアに住かアボリジニの間で恐れられたヴードーデス「呪いによる死ごという病いは、病気と治療の文化人類学によれば、長老や祖先の霊のいかりにふれ、指導行の呪出や邪術にかけられたと知った時、その恐怖のあまり、それまで頑健であったものが短期間に衰弱し、死亡して行く現象である。また周囲の人々も、その本人をもう死をまぬかれない病人として遇し、死に向かっての準備を始めるという文化的病いとして、大変合名なものである。

これなどは、人間の心(思考様式)が、いかに簡胆にWHO(世界保健機関)の決めた病気の規準などを飛び越して、その身体を殺してしまうのかをよくわがらせてくれる。これと同じように、明治以前の‐本人も[然現象から人間が感じる快、不快や生死、あるいは諸物の暑寒湿燥などの性質、さらには目にみえない神や物の気や言などの起こす事象を、すべて陰と陽とに対比し、それを宇山の根源的な変動リズムであるととらえ、すべての事象はこの支え合う二元的大系によって説明されうるという思考様式(宇宙観)を持っていた。したがって身体もまたすべて陰と陽との諸体液や経絡、感情などのバランスのLに支えられていると考えていた。

これはもともと古代中国の陰陽道といわれる宇山哲学に由来するもので、前二世紀の作といわれるつ易経」にも盛り込まれているという。日本には古くから取り入れられ、世紀中頃、天武天皇が、その仕事をつかさざる陰陽寮をもうけた頃が一番盛んだったらしい。その後、陰陽思想は絶えることなく、肯定的に目本人の心に引きつがれ、徳川時代には国家組織にも組み込まれて、深く人々の心に浸透していた。しかし明治政府は長い歴史のあるこのような考え方を迷信として弾圧し、科学的根拠にもとづくものとして、近代西洋医学のみの導入を図った。